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「生誕120年 安井仲治―僕の大切な写真」 心震わせるイメージを印画紙に焼き付けた写真家 安井仲治の展覧会が20年ぶりに開催

レポート

                                        文=黒木杏紀

安井仲治(1903-1942)は大正期から太平洋戦争勃発に至る激動の時代に、さまざまな被写体にカメラを向け多岐にわたる技術や表現様式に果敢に取り組み、単に実践するだけでなくその時代を的確に捉え、かつ芸術作品として写真を昇華させてきた写真家である。そこには100年経った今でさえ私たち現代人を惹きつけてやまない魅力があると同時に、安井の短すぎる38歳の生涯とその生き様はそのまま日本の写真史の流れとも符合する。生誕120年を機に兵庫県立美術館で2023年12月16日(土)~2024年2月12日(月)まで、本格的な回顧展「安井仲治―僕の大切な写真」が兵庫県立美術館で開催されている。

兵庫県立美術館の10,000点以上の収蔵品の傾向とその成り立ち

中井安治は、兵庫県立美術館代々の学芸員が長年検証し続けてきたゆかりの深い作家なのだと本展のキュレーターの小林公学芸員は話す。また、本展に出品されるオリジナルプリントのほとんどすべてが兵庫県立美術館の寄託品となることも踏まえて、本題に入る前に兵庫県立美術館がどんな美術館なのか、コレクションを中心に紐解いていきたい。

兵庫県立美術館は、阪神・淡路大震災からの「文化の復興」のシンボルとして前身の兵庫県立近代美術館を継承する形で神戸市「HAT神戸」地区に2002年開館する。設計は安藤忠雄氏、西日本最大級の床面積を持ち南北に大きく2分された館は鉄工所の跡地であったことから、北側(山側)には「過去」を象徴する鉄が多く使われ、南側(海側)には「未来」を象徴するガラスが多用されている。御影石で覆われた外壁は蔦を絡ませ、時とともに様相が変化していくよう施されている。内部が薄暗いのは、訪れる時間や季節によって館内に差し込む光の印影で変化していく空間や建物がイメージされているからである。

美術館にはそれぞれ活動方針やコレクションの傾向(地域・文化・時代、扱うジャンルなど)の違いがあり、それが美術館の特徴を決定づけている。兵庫県立美術館では前身の兵庫県立近代美術館より約半世紀以上もの期間作品収集がなされており、購入や受贈も合わせ、現在は10,000点以上のコレクション数を誇る。その多数ある収蔵品の特徴は大きく2つ。ひとつはコレクションの内容、そしてもうひとつは優れた作品のまとまった個人による寄贈が多い点である。まず、はじめにコレクションの内容から紐解くと、次の4つの収集の柱から成り立っていることが分かる。
1)【近代彫刻】(海外、日本)
2)【近代版画】(海外、日本)
3)【郷土作家】(兵庫ゆかりの作家)
4)【現代美術】(写真、映像、デザインなどの分野も含む)

この4つの収集の柱をさらに詳しく見ていくと、【海外彫刻】は誰もが知る近代彫刻の父ロダンにはじまり、ブールデル、マイヨール、ブランクーシやシーガルなど、20世紀の彫刻の流れが一望できる系統的な収集がされている。また、【日本の彫刻】には欠かせない柳原義達や舟越保武、佐藤忠良らの作品も常設の展示で見ることができる。そして、【海外版画】ではゴヤ、マネ、クリンガー、ピカソ、カンディンスキー、ウォーホル、アンソール、エルンストらの作品の数々。【日本版画】は、風景版画の小林清親、新版画の川瀬巴水、国際的にも高い評価を受けた長谷川潔、浜田知明、池田満寿夫など、近代から現代にかけての日本の版画史をたどることができるラインナップになっている。県立の美術館としては【郷土作家】の兵庫ゆかりの作家の収集も外せないところ。金山平三と小磯良平は常時見ることができるように記念室を備えている。また、京都画壇から離れて神戸・花隈に住み六甲山や仏様を描いた村上華岳、幼少期を神戸で過ごした東山魁夷らをはじめとした日本画・洋画の郷土作家も多数。【現代美術】では特に具体美術協会において、リーダー吉原治良をはじめ、元永定正、白髪一雄、嶋本昭三、田中敦子といった初期メンバーの作品を数多く所蔵しており、当時数百万円だったものが今や数億円にもなる作品も多数あるのだとか。そして、実は収蔵品に関して海外からの問合せが多いのが、具体美術協会と並んで本展の作家 安井仲治なのだという。

次に、もう一つのコレクションの特徴である。日本は税制上の理由などにより海外と比較しても美術品の寄贈が文化として根付いていない状況の中で、下記に挙げたようなまとまった形での個人寄贈による収蔵がいくつか見られる点が大きな特徴といえるだろう。

1) 日本の戦後美術の収集に力を注いだ【山村コレクション】(1986年収蔵)
2) 森村泰昌の珍しい小品に特化した【O氏コレクション】(2006年収蔵)
3) 日経ブラジル人芸術家の作品を集めた【赤川コレクション】(2009年収蔵)
4) スタンレー・ウィリアム・ヘイター作品の屈指のコレクション(2011年収蔵)
5) 戦後大阪を代表する画廊である信濃橋画廊の【信濃橋画廊コレクション】(2012年収蔵)

これらの個人寄贈による収蔵品は、ここ最近においては大阪で半世紀近く活動を続け関西の現代美術史を語る上では欠かせない信濃橋画廊のコレクションが「新収蔵品紹介:信濃橋画廊コレクション」(2013年)として紹介されている。また「アブストラクト(=抽象)と人間くさい前衛のはざ間」を収集方針に集められた戦後日本の前衛美術の一大個人コレクションの展覧会が「集めた!日本の前衛-山村德太郎の眼 山村コレクション展」(2019年)として開催された。

常設展スペースは企画展の1.5倍、企画力の高いテーマで魅せる兵庫県立美術館の充実のコレクション展

兵庫県立美術館のコレクション展は展示にかなり力を入れており、企画展にも追随するほどの内容となっているのが大きな特色である。単に作品をテーマごとに並べるのではなく1年をⅢ期に分け10,000点を超える作品がさまざまなテーマに分けられ、よく練り込んだ独自性の高い企画展示で紹介されている。それぞれ第Ⅰ~Ⅲ期の内容は以下のとおりである。

●第Ⅰ期:企画性の高い踏み込んだ内容のもの。
●第Ⅱ期:視覚に重きを置いてきた美術鑑賞のあり方を問い直すことを目的に、1989年から継続的に視覚に頼らない美術鑑賞の提案を継続。加えて前年度に新しく収蔵された作品紹介もある。
●第Ⅲ期:「小企画」と共に収蔵品の中でも名品とされる作品群を見ることができ、どれも特別展とはひと味違った興味深い展示内容となっている。

(コレクション展の)「小企画」とは、常設展示の一角に収蔵品に加え館外作品も使った企画もので、かなり本格的な企画展示となる。ちなみに「特集」とは特定のテーマにしたがって所蔵作品を展示し美術鑑賞に新しい視点を打ち出すものとなる。通常の場合、コレクション展は美術館のメインスペースではない場所でひっそり開催される印象がある。しかし、兵庫県立美術館の常設展示のスペースは企画展示室と比較して1.5倍の広さがあり、展示数が200点以上に及ぶことも多々、企画展よりボリュームが大きい場合もある。コレクション展といえども、なかなかあなどれない展覧会なのである。
実際に、過去に開催されたコレクション展 小企画「安井仲治 ―僕はこんな美しいものを見たー」(2005年)ではオリジナルプリント169点とモダンプリント5点の計174点、同じく小企画「安井仲治の位置」(2011年)ではモダンプリント30点とヴィンテージプリント2点を出品。今回の展覧会「安井仲治 ―僕の大切な写真」の出品数が約200点であることを踏まえても、かなりの見応えがある展示だと推測ができるのではないだろうか。
さて、次の章では話を本題に戻し、本展について紹介していく。

安井仲治の誕生から本展覧会までの流れとその時代背景

今から約120年前、1903年大阪の豊かな商家に生まれた安井仲治。その時代とても高価であったカメラを買い与えられた安井は写真に魅せられ、1922年10代にして関西のアマチュア写真家団体の名門「浪華写真倶楽部」に入会、すぐに頭角を現し代表格のメンバーとして活躍し始める。瞬く間に全国にその名を知られて、若くして関西写壇に欠かせない存在となる。当時は、職業として写真を行うのは写真館や報道写真家などで、多くの写真家はプライベートの時間を使って撮影し発表する「アマチュア」という立場であった。この頃の「アマチュア」は、現在とはニュアンスが異なるもので、自らの信念と芸術表現として追求する機運が写真家の中では高まっており、自律した表現者としての自負がこの言葉に込められていた。

ピグメント印画(※1)の技法を駆使したものや1930年前後に新興写真(※2)と呼ばれた写真独特の表現を追求する作品などで知られた安井は、時代の動向に敏感に反応しながらも一貫して、カメラを通して世界と向き合うことで生じる心の震えを繊細に真摯にまた時には激しく、受け止め続けた。その卓越した作品と共に温厚篤実な人柄によって人々から慕われつつも、1942年(昭和17年)に病により38歳の若さで亡くなる。

戦前に早世した安井仲治の評価は一時期下火になったが、1950年代になって土門拳が彼の作品を高く評価、1970年代には日本写真史に対する関心が全国的に高まり、安井の再評価が始まる。その頃の背景のひとつとして、1968年に東京・池袋西武百貨店において20世紀で最も重要な写真展「写真100年—日本人による写真表現の歴史展」(※)3 が開催されたのも大きいであろう。展覧会の組織に関わった人物は、東松照明、多木浩二、内藤正敏、中平卓馬ら、専門的な写真評論家や写真史家ではなく、当時の中堅から若手であった写真家自身によってこの歴史記述の作業が行なわれたことは注目に値する。100年間の日本人写真家による作品を分析したこの「写真100年—日本人による写真表現の歴史展」は、写真表現の変遷を体系づけた最初のアーカイブ・プロジェクトとなる。集められた写真が膨大な数であったことが、日本で初めての集中的な写真美術館、および写真資料の恒久的なアーカイブとしての東京都写真美術館設立への動きへとつながっていくのも興味深いところだ。

また、もうひとつの写真界の背景として、フランス・パリで最初の写真専門ギャラリー「ラ・ギャルリー・ルージュ(La Galerie Rouge)」(※4)がオープンしたのが1975年、そのわずか3年後の1978年に日本で最初の写真のコマーシャルギャラリー「ツァイト・フォト・サロン」(※5)が誕生、その1年後の1979年には国内2番目の今も現存する写真ギャラリー「フォト・ギャラリー・インターナショナル(PGI)」が開廊。その事実からも当時の日本国内の写真に対する注目度がうかがえるだろう。消費社会が成熟しつつあるなか「anan」(創刊1970年)を筆頭にヴィジュアル雑誌が次々と創刊されたのもちょうどこの頃である。

このような時代の流れにおいて、1980年代には兵庫県立近代美術館が安井仲治をはじめとする戦前の関西で活躍した写真家たちの調査研究に着手する。その後40年以上にわたり、何代もの学芸員が写真家・安井仲治の検証に努めてきた。そのおかげもあり公立美術館でも安井の作品が紹介されるようになる。さらに、森山大道が「安井仲治という大きな山嶺」と呼んで最大限の贅辞を贈ったことで、その存在は新しい世代にも知られるようになった。2004年から翌年まで渋谷区立松濤美術館と名古屋市美術館で開催された回顧展では、戦災で焼失した代表作がオリジナルネガからプリントされ、安井の業續の全貌が検証されている。そして、兵庫県立美術館で2005年と2011年に合計出品数が200点を超えるコレクション展が開催されたことは、前述にもあるが改めてここで記載しておきたい。
本格的な回顧展から約20年を経た本展では、200点以上の出展作品を通じて安井仲治の全貌をあらたに甦らせる。その後の調査も踏まえ作家自身が手掛けたヴィンテージプリント141点、、ネガやコンタクトプリントの調査に基づいて新たに制作された重要作品となるモダンプリント23点とモダンプリント46点のほか、さまざまな資料を展示する。安井の初期から晩年まで時系列に5章で構成し、写真の可能性を切りひらいた偉大な作家の業績を辿る。

第1章:写真家・安井仲治誕生の1920年代~大正デモクラシーと近代社会における芸術写真の高まり

第1章では、安井が本格的に写真に取り組み始めた1920年代を主に紹介する。大正時代の要素も見て取れるラインナップとなっており、時代の雰囲気も合わせて見てほしい。当時は芸術表現を追求する「芸術写真」の機運が高まり、多くは情緒ある「絵画的」(ピクトリアリズム)な表現を志向するものだった。安井もあらゆる技法を凝らしてこうした傾向の作品を制作している。ソフトフォーカスによる柔らかな画面が印象的な作品《分離派の建築と其周囲》(1922)は、第一次世界大戦終結記念に東京の上の公園で開催された平和記念東京博覧会に訪れたときの写真で、かまぼこ型がモチーフの建物は堀口捨己が設計した分離派建築のパビリオンである。これが安井の実質的な写壇デビュー作品となる。

安井は様々なプリント技法を駆使し、活動初期にはブロムオイルをはじめとするピグメント印刷に積極的に取り組んでいる。どっしりとした船の姿が特徴的な作品《クレインノヒビキ》(1923)の船舶のにぶい輝きやもうもうたる蒸気は、特殊な薬品で処理した印画紙に油性インクをのせ描画するブロムオイル特有の表現といえよう。工業化を果たして東洋のマンチェスターと呼ばれた活気のある大阪の港の様子や、小舟の上の人物と船のスケール感が伝わってくる写真である。しっとりとした画面が美しい一方で、都市問題が勃発し始める兆しもあり、やや猟奇的なイメージとして見ることもできる。

安井は人間社会の在りようにも敏感に反応し、路傍に生きる人々を捉え社会的文脈も備えた表現段階に早々と進んでいる。当時流行していたのは風景写真だが、猿廻しを見る人々を撮った一連の写真《猿廻しの図》(1925/2023)は斬新な試みで大きな話題を呼んだ。彼ら(写真の中の人物たち)が見ているものをあえてフレームの外へ、そして労働者や軍人、子どもなど当時のさまざまな社会階層の観客たちの眼差しに重点を置いた。視線が交差する状況を俯瞰する安井の態度の鋭さが見て取れる作品となっている。時代の状況や時代を俯瞰する要素をはらみ1枚の写真の中から読み取れるものが多い。また、旅芸人という主題からも晩年の代表作《流氓ユダヤ》シリーズにも通ずる安井の一貫した関心もうかがえ、初期の代表作にふさわしいものとなっている。実際、安井のこれらの表現は発表当時から高く評価され、20代前半で指導的な立場となった。写真会報誌で安井は次のように文章を残している。

人と人との関係が社会を作っているのだという認識が若くしてすでにあったのだ。安井が23才の時の文章である。

第2章 1930s-1:都市への眼差し~カメラやレンズによる機械の眼を活かした表現「新興写真」を中心に

日本写真史における一つのピークともいえる1930年代。それは安井にとっても同じく、様々な手法やスタイルが試みられ代表作の数々が生まれた充実の時代となる。展覧会では1930年代を第2章から4章までの3つの章で紹介し安井の実像に迫る。第2章では新興写真に関連する作品を紹介する。

日本の写真界にとって大きな衝撃が起こった1931年。バウハウスやシュルレアリスムなど当時の前衛的な写真を集めた「独逸国際移動写真展」が東京と大阪で開催されたのだ。この展覧会が大きな契機となり、写真の潮流が一気に「芸術写真」からカメラやレンズによる機械の眼を生かした表現「新興写真」へ変化していくのである。安井も多分に漏れずその影響を受け、それまでは見られなかったスナップショットや、極端なクローズアップ、広角、仰角、俯瞰での撮影、フォトグラム、フォトモンタージュなどを積極的に試みている。ここで興味深いのは時代遅れとなりつつあるブロムオイル印刷の手法も手放すことはなかった点である。さまざまな技法は取り入れるが、あくまでも作画のための一手段にすぎないと安井が考えている様子がうかがえる。

安井の大胆なトリミングの上手さが際立つのが、大阪の馬場町のバス停で待つ人々を撮った作品《馬場町》(1929/2004)だ。近寄ってよく見ると、壁沿いにバスを待つ人たちの頭の高さのラインはそろっているが顔の向いている方向がバラバラである。画面左端下の犬に気が付く人もいれば、キョロキョロする人もいる。前述の作品《猿回し》と同じく、何かを見ているあるいは見ていないさまざまな態度の違いによって、世の中の複雑でユーモラスな在り様を象徴的に切り出している安井の特徴がよく表れているといえるだろう。構図の作り方が前述の《猿回し》とはまた違い、写真家としての安井の魅力を味わうのには打ってつけの2作(《猿回し》《馬場町》)であろう。

新技法を取り入れた試みの中でも、安井の都市風景と人物像における到達点を示している作品が、1931年に大阪の中之島で起こった大きなメーデーのデモを取材した《(凝視)》(1931/2023)を含む一連の作品である。いわゆる報道写真であるが、1920年代にはなかったもので、これも新しい写真のスタイルのひとつとなる。現存するネガから分かるのは、ネガの反転や大胆なトリミング加工、ブレを効果的に活かすための手法など技術が駆使されていることだ。そこから作家にとってありのままのイメージを表現するのではなく、現場の熱気やエネルギーといった臨場感の表現が最重要な要素として位置づけられていることが見えてくる。ネガの表裏をひっくり返してしまうのは普通ならミスとなるのだが、安井は現実よりも写真としていい方を選択するのである。安井にとっての写真とは何だったのか考えるひとつの重要な要素であろう。

第3章 1930s-2:静物のある風景~生と死を乗り越えて変化する眼差し「半静物」、安井の周辺

第3章では、いよいよ安井の写真がさらに自由になっていくさまが垣間見られる。ここでは同じ1930年代の写真の中でも、新興写真やシュルレアリスムの特定のジャンルではくくり切れない「その他」の作品を紹介している。実は「その他」といえどその中に代表作が多く並んでいる点も注目である。
この時期、安井は4人の子どもたちを授かる一方で、弟と妹を、さらに次男を相次いで亡くすという人生の大きな出来事をいくつも経験している。そうした生と死を経験することで命というものを強く意識し、蛾や犬のような人間以外の小さな生き物にもカメラのレンズを向けるようになる。例えば、安井の代表作にはしばしば犬が登場するのだが、彼にとって犬は愛玩対象であると同時に無常さや哀れさを感じさせる存在だったのであろう。そして、その眼差しは道端の静物にも向けられていくのである。

1930年代に安井は、撮影場所で即興的にモチーフを自由に構成し撮影する「半静物」という独自の表現方法を生み出す。《公園》(1936)は、水道の蛇口を開いて水を出し、そばで積んできた野草を差し込んで撮影したものである。この「調和と不調和」「作為と自然」というテーマは安井の写真に大きな変革をもたらす新しい方法論の前触れとなる。実際に、安井は現地でのさまざまな写真の構成に取り組み続け、徐々に作品の焦点はシュルレアリスム的な世界の探求に向かっていくのである。

「100年後の写真はどうなっていますか」
当時のアサヒカメラの編集部が有名写真家に尋ねた質問である。それに対する返答が次の写真に記されている。

これは決して冷めた言葉やあきらめではなく、技術がどれだけ進歩しようとも芸術としての写真は何一つ変わらない、自分たちが信じる道を行けばいい、写真はあくまでも手段であり、技術や手法に振り回されることはないのだという、安井のある自由さがここに感じられるのではないだろうか。

また、安井の特徴として取り上げられるのは、海外の動向にとても明るいことである。海外の写真集や写真雑誌、「LIFE」などもほとんどタイムラグなしに取り寄せ目を通している。遺品の中には、マックスエルンストのコラージュをまとめた作品集などもあった。ピカソ、マチス、エルンストあたりが意識していた作家なのであろうということが所持品の中から伝わってくる。これらのことからも当時の最先端の高級美術雑誌などを見ながら、コンプレックスなく自分はどのような作品を作ろうかと大きな構えで制作に向かっていた姿勢がうかがえる。

第4章 1930s-3:夢幻と不条理の沃野~シュルレアリスムの影響とさらに自由な表現へ

第4章では主にシュルレアリスムに影響を受けた安井の作品を紹介する。
1930年代半ばになると、写真表現は新たな展開を迎える。その中でもシュルレアリスムの理論を積極的に取り入れた写真は「前衛」と形容され、報道写真と並び当時際立った存在感を見せた。前衛的な傾向の写真を押し進めた写真クラブの中には安井が指導役を務める丹平写真倶楽部もあった。丹平のメンバーは大阪にある旧制の北野中学校にて撮影会を催し、教材用の模型や標本、実験器具などを組合せシーツで逆光を作るなど演出も交えた作品を残し、関西の「前衛写真」の先進性を全国に印象付けた。さらには、シュルレアリスムに影響を受けたことにとどまらず、もう一歩踏み込み安井独自の表現の世界を生み出していることに注目したい。

また、安井の写真を焼くプリンターとしての技術力の高さがうかがえるのが麻のジャケットを撮った《背広》(1938)であろう。近寄ってみると光の濃淡の波長がデリケートに捉えられており、そのテクスチャーと光のニュアンスだけで見るものをうっとりさせる作品力がある。プリントの美しさが堪能できる1点である。これはぜひ実物の写真をご覧頂きたい。

第5章 Late 1930s-1942:不易と流行~安井の最晩年、早すぎる死

第5章では安井の最晩年となる1939年以降の作品を紹介している。
1937年に日中戦争がはじまり、アマチュア写真家たちの活動は徐々に制限されていく。撮影場所の制限、写真用品の値上げや不足、写真趣味に対する世間の目など写真活動を続けていくのは容易ではない。ある程度の同調はやむを得なく、安井は奉仕活動の一環としてとして白衣勇士(療養中の傷痍軍人)たちの撮影を丹平写真倶楽部の有志とともに行い作品を残している。加えて、新体制と呼ばれる時代に入ってからの作品は出征兵を見送る女性の姿《惜別》(1939-1940)や子どもを抱えた母など、時代の雰囲気を感じさせる作品が増えていく。その中でも、安井は自分の世界を作り続け、悲哀や緊張を感じさせる写真がある一方でどこかのんきでユーモラスな写真も生み出し、画角の広狭によって戦時社会の悲哀と全体主義の滑稽さを巧みに描きだしていった。

神戸の歴史的なエピソードでもある《流氓ユダヤ》シリーズの写真に関して、図版使用の問合せは数多くあるが安井の写真が選ばれることはあまりないという。安井の写真は作品としての表現はともかく、人間としての姿を捉えているので場所が特定できないなど歴史的な事実としての説明には適さないからかもしれない。

最後に紙面で発表した作品が《上賀茂》、《雪月花》の風景三部作2編となる。日本情緒を思わせるテーマでもあり、古都を背景にした情感豊かな風景への回帰として語られることが多い作品である。ただ、これまでの安井の革新的な歩みを振り返ると単なる情緒的な作品と踏みとどまらず理解を進めたいところである。そうすると「見る」という行為のバリエーションがここには展開されていることに気づかされる。《上賀茂(一)》は先を見通せないけもの道の奥行きのイルージョンとして。《上賀茂(二)》では、視線を遮断する塀の上の影による純粋な平面構成。《上賀茂(三)》は湖面に映し出された現実と寸分変わらぬ虚像と現実との対比。「月」とは「見ること」ができるのに手で触れることができない映像を暗喩する古来の例である(※6)。
見ることを通じて、この世界の現実に触れること。安井の写真とはそのような身体性をともなう行為だったといえるのではないだろうか。

《流氓ユダヤ》シリーズを撮ったその年の夏、腎臓の病が見つかり自宅療養に入る。同年年末には神戸の甲南病院に入院、翌年の1942年3月腎不全のため死去。享年38歳の若さである。

会場内には安井の言葉があちこちに記されている。安井は写真という芸術の魅力を、そしてその道の難しさを平易な言葉で語る努力を惜しまなかった。そうした文章の端々に、写真という芸術への畏怖と深い愛着がにじみ出している。写真によって世界を見つめ、写真という芸術を通じて人々と友情を育んだ安井。作品だけでなく、また彼の言葉を通じてその人間性にも触れ、さらに安井のファンになる人も多いときく。
安井仲治は日本写真史の軌跡をなぞらえる存在でもあり、戦時中の閉塞感の中、写真を通じ時代を生き抜いた人でもある。現代人にとっても共感するところは多いはずである。

【開催概要】
展覧会名:「生誕120年 安井仲治―僕の大切な写真」展
会期:2023年12月16日(土)~2024 年2月12日(月・振休)
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2312/

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(※1) ピグメント印画法
ピグメント(顔料)印画法とは、顔料を使って画像を作る写真の技法。銀の化合物によって画像が作られる写真(ゼラチン・シルバー・プリントなど)と異なり、ピクトリアリズムの特徴である、独特のやわらかさと美しさを作り出すことができる。1930年前後の日本で流行した新興写真と呼ばれる絵画とは異なる写真ならではの画面を志向する技法。
参考:写真はどこまで芸術か – 新・平成写真師心得帳  
https://yanretro.hatenadiary.org/entry/20110512/1305177797  (2024年1月15日確認)

(※2) 新興写真
新興写真とは、1930年前後の日本の写真界で盛んになった芸術の表現運動です。ドイツの新即物主義(ノイエザッハリヒカイト)やシュルレアリスムなどの影響を受け、それまでのピクトリアリズム(絵画主義写真)とは異なる動きとして注目を集めた。小型カメラによるスナップショットや、極端なクローズアップ、広角、仰角、俯瞰での撮影、フォトグラム、フォトモンタージュといった技法を用いて、それまでの芸術写真とは異なる、カメラやレンズによる機械の眼を生かした表現。
参照:新興写真 | 現代美術用語辞典ver.2.0
https://l.pg1x.com/URHB  (2024年1月15日確認)

(※3) 「写真100年 日本人による写真表現の歴史」展 | 現代美術用語辞典ver.2.0 
https://l.pg1x.com/R55e  (2024年1月15日確認)

(※4) 「ラ・ギャルリー・ルージュ(La Galerie Rouge)」
パリの写真界、その未来を牽引する、新しい女性ディレクターの物語。 – 2023年記事
https://sumau.com/2023-n/article/364  (2024年1月15日確認)
●ギャラリー:La Galerie Rouge ラ・ギャルリー・ルージュ
3, Rue du Pont Louis-Philippe 75004 Paris
https://lagalerierouge.paris/  (2024年1月15日確認)

(※5) 
参考:写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン
著者:粟生田弓
出版社:小学館
単行本:317ページ (発売日:2016/10/11)
Kindle版 348ページ (発売日:2022/12/6)
https://amzn.asia/d/6O1Qf1o (2024年1月15日確認)

(※6)  
参照:安井仲治作品集 「生誕120年 安井仲治―僕の大切な写真」 公式図録
虚実のあわい[3]上賀茂三部作  217頁L9~218頁L36
著者:安井仲治
編者:兵庫県立美術館、愛知県美術館、東京ステーションギャラリー、共同通信社 文化事業室
出版社:株式会社河出書房新社
初版発行:2023年10月30日
https://amzn.asia/d/gligskB (2024年1月15日確認)

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